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すけっち


 去年の7月7日、ちょうど今頃の季節でした。
そろそろ暑い盛りに向かう日の、まだ明けきらぬ朝、ドイツから急ぎ駆けつけたご長女とお孫さんに看取られ、最長老の美術監督、巨匠中村公彦先生が94歳の長寿を全うして死去されました。
日活には、「先生」とお呼びする巨匠が5人いらっしゃいました。小池一美先生、松山崇先生、丸茂孝先生、木村威夫先生、そして中村公彦先生です。
弟子どもが真実敬意をこめてお呼びしてきた先生たちの最後のお一人が中村先生となりました。 いま一年の月日が経過し、私は再び耐え難い悲しみの中で先生への思いを新たにしています。
いかに長寿の時代とは言いながら、94歳という、たやすく真似のできない齢を重ねてこられ、中村先生こそは「100歳万歳間違いなし!」と、弟子どもが長寿を祝う会を企画し、日取りも会場も決まった矢先のことでした。思い起こしても残念でなりません。

 私が先生とお会いしたのは昭和三十年、日活が製作を再開して間もなくの頃でした。
先生は、それまでは松竹におられ、木下恵介監督の「日本の悲劇」や「二十四の瞳」など、多くの名作を手がけられた美術監督として日活に招かれ、次から次へと作品を担当しておられたさなかのことです。
先生と同じ道を志す若造の私にとって、「美術監督中村公彦」の名声は、限りない憧れであり、夢のような目標でありました。

 その中村先生にお目にかかって一年目。私に大きな幸運が訪れました。川島雄三監督の「わが町」「飢える塊」「幕末太陽伝」と続けて三本、先生とご一緒の仕事ができるチャンスに遭遇したことでした。
三作品それぞれに、得がたい体験と、先生からは多くの示唆に富んだご指導をいただきましたが、なかでも、映画史に残る名作となった「幕末太陽伝」の仕事では、「仕事をする環境が大事だ」とおっしゃられて、映画の舞台を彷彿とさせる旅館の一部屋を長期に借り受け、川島時代劇のデザインに没頭した日々のことです。
まさしく先生と寝食をともにしながら、先生の「仕事と人間」そのものに触れる貴重な機会に恵まれました。
私にとって生涯忘れることの出来ない仕事になり、私のその後の人生にどれほど大きな力と財産になったか分かりません。

 他にも先生は、井上梅次監督、松尾昭典監督らと、息の合った多くの作品を共にされたほか、20人近い有名監督たちから是非にと請われて美術を担当し、すぐれた美術表現によって作品の成果に大きく貢献をされました。
若くして亡くなった浦山桐郎監督とは「キューポラのある町」を残し、松竹時代からの友情を育んできた今村昌平監督とは「にあんちゃん」「にっぽん昆虫記」「豚と軍艦」など、世界的な評価をかち得た多くの名作を世に送り出しました。
こうして中村先生は、1952年に手がけられた松竹での第一作から、日活を離れる1970年までのわずか18年間に、実に113本という驚異的な数の作品を残されることになりました。しかもこの間に手がけられた芸術祭参加のTV映画「北緯四十三度」をはじめ、時代の進展とともに担当された多くのTV作品も見落とすことが出来ません。

 日活映画の黄金期を支えた一万の雄、先に亡くなられた木村威夫先生の、大胆で当意即妙、瞬発的発想のダイナミズムとは対極に、温厚寡黙な人柄を映して発想される「重厚感」と、確かな資料を裏づけに生み出される「にじみでる情感」は、作品のすべてに「品格の漂う映像美」を与え続けました。
包容力のある人間性からほとばしる作品への情熱。時として執念にも似た仕事への取り組み。
そして今でも神話的に語られる「中村調」「細部へのこだわり」。細密を極め、微妙な寸法で表現される美術デザインは、私たちの仕事にも大きな遺産となりました。


 さかのぼる2000年4月、先生が大事に保存してこられた舞台装置画を集めて「中村公彦・新宿ムーランルージュ展」を開催された時のことを忘れることができません。
ムーランルージュといえば、戦前から前後にかけての20年間、新宿の空に回る「赤い風車」が目印の小劇場です。空襲で一旦はその姿を失いながらも、学生や文化人、インテリ層の厚い支持を集めて戦後の新宿に復活した大衆演劇の殿堂でした。
また、森繁久弥さんをはじめ、有島一郎さん、三崎千恵子さんなど、映画、TV、演劇界に多くのスターを輩出した劇場として戦後の文化史に欠かせぬ大きな存在でありましたが、そのこと以上に、一世を風靡したムーランルージュを象徴する言葉、当時流行語にもなった「しゃれてモダンなムーラン調」は、人気絶頂の舞台装置家「中村夏樹」の舞台装置から生まれたものでした。
 この舞台装置家「中村夏樹」こそ、のちの美術監督「中村公彦先生」であることを知った、その時の驚きと興奮。今でも鮮やかに甦ります。

 更にさかのぼれば、大正5年に熊本でお生まれになった中村先生ですが、早稲田大学の商科を卒業して、三菱重工本社での十年近いサラリーマン生活の経験、三菱重工を退社されたあとも、財閥解体の政府関係機構で戦後処理の要職を勤められるなど、およそ美術デザインの生活とは程遠い道を歩いてこられながら、一転して舞台装置から映画美術の世界へ。
フリーに転進後は芸術系学園で映画美術の教育に携わり、長年に及んだ先生の名物講座は多くの後進を育てました。そして晩年はインテリアデザイナーとして70作品にもおよぶ有名店の設計。映画美術の技法を導入した演出性豊かな商業空間が街の話題となりました。

 この驚くべき華麗な転進と、その都度発揮された「感性」と「技術」、しかも「常に最高レベル」に保たれる仕事の成果はいったいどこから生まれてきたのでしょうか。私はムーランルージュ展の準備を進めながら、改めて先生のただならぬ「人と業績」に頭を垂れ、畏敬の念に体が震えたのを昨日のように覚えています。
展覧会のパンフレットに、先生がご自身の仕事を総括して次のような一文を寄せられました。

「舞台美術も、映画美術も、原点はその仕事を愛する『魂』であり、己に打ち勝つという持続の精神である」

 先生のこの名言を、私は生涯忘れることはないでしょう。

 本年はムーランルージュの生誕から80年。存命する関係者が日を追って少なくなっていくなか、その全貌を記録的に映画化する構想が若い映像作家の情熱で進められています。田中重幸監督『ムーランルージュの青春』中村先生の夢であり遺言でもあったこの映画がいよいよ9月には一般公開の運びとなりました。 中村先生がこよなく愛した昭和新宿。そこを舞台に繰り広げられるムーランのエスプリとエロスは、中村先生の青春と重なる華麗で鮮烈、陽炎ただよう郷愁のドキュメンタリーです。 先生も全面的な協力を約束して一日も早い完成を待ち望んでおられましたが果たせぬままになりました。

 改めて中村公彦先生のご冥福を心からお祈りいたします。




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